あとがきにもあるように、DARTHREIDERによる極私的MCバトル史の本。書名は盛りすぎ。
ヒップホップ界隈の一つのイベントでしかなかったMCバトルの変遷について。
2000年代中頃まではラッパーとしての生活の延長上にMCバトルが存在していました。ラッパーの余興の一つとして、テクニックを魅せる手段の一つとして、ヒップホップ好きが集まるイベントの一つとしてMCバトルがあったわけです。
しかし次第にMCバトルの規模が大きくなり、2009年あたりからバトルの舞台とヒップホップのシーンとが分離し始めます。MCバトルしか知らない聴衆、またはバトルしかやらないプレイヤーが参入してきます。お互いにバトルで初めて対面する相手なので言いたいこともない、ラップのテクニックしか勝負を決するポイントがない、また勝つためなら何を言ってもかまわない、そのような風潮が出てきます。本書では、これを"スポーツ化"したバトルと呼んでます。
こういう現象は、どんな分野でも拡大するときには起きることでしょう。もともとはある分野の一要素でしかなかったものが人気を得て、その一要素が元の文脈から離れていき、独自の文化を形成するという現象は。*1
昔からその分野に居た人にとっては自分の分野が汚されたようで面白くない一方で、新しい文化の形成は広い視点で見ると好ましいことでしょう。DARTHREIDERもMCバトルのスポーツ化に対しては複雑な心情のようで、MCバトルが「ヒップホップ」の価値観から離れることは寂しいけれど*2、ラップがブームになることは日本語の可能性の深化につながるのではないか、という趣旨のことを述べてます。
全体的には自分も本書の印象に同意します。MCバトルはラッパーの人となりや音楽性を感じられるものであって欲しいし、テクニック論だけで語られるとつまらないです。ただ、ヒップホップの価値観とかは正直どうでも良い、というか「ヒップホップ」という言葉が都合よく使われすぎてて、MC漢などはバトルの解説を求められてうまく説明できないとヒップホップという言葉でゴマかそうとする節があるので、もはや言葉自体使って欲しくなくなってきてます。内田裕也のロックンロールみたいなものと思えば良いのでしょうか。
ですので、MCバトルがヒップホップの文脈から離れることは別に構いませんが、MCバトルしか観てない人がMCバトルの主流になって縮小再生産されるのは観ていてつまらないので断固反対です。R-指定はおそらくスポーツ化したMCバトルの走りのような存在なのかなと思います。彼ほどのずば抜けたテクニックとユーモアがありそれを完全に消化してた人がプレーヤーならば、一つの完成されたスポーツ、芸術として観ていられます。別にラッパーのバックボーンとか人格、ヒップホップ的な価値観とか関係してこなくても。しかし、そのテクニックを表面的に模倣しただけのラッパーが中心になるバトルはキツいです。
縮小再生産を避けるためには、MCバトルをそれだけで完結する閉じた世界にしない方が良いでしょう。でもだからと言って、元の「ヒップホップ」なコワモテの世界の中だけにMCバトルを位置付けるべき必要はないと思います。
知ってる話が多かったけど、面白い裏話もありました。AKLOがUMBの原型になった「お黙り!ラップ道場」に参加してたとか、THA BLUE HERBのBOSSがダースとつながってたとか。
あとあんま本筋に関係ないけど、DARTHREIDERもT-Pablowを推してることが伝わってちょっと嬉しかったです。自分も近年のイチオシ。
T-Pablowは、サイプレス上野とDABOと一緒にDARTHREIDERが語ってたZeebraの魅力である「盛りの美学」、謎のスケールのデカさを今一番持ってるラッパーだと思うんですよね(↓の動画参照。盛りの美学はAKLOやKREVAにもあると思います)。「川崎区で有名になりたきゃ人殺すかラッパーになるか」なんてまさにその象徴的ライン。「東京生まれHIP HOP育ち 悪そうなやつは大体友達」みたいなもんで、突っ込みどころ満載だけど、そこも含めてエンターテイナーですよね。
この一連の動画は面白い。ダースの喋りも冴えてます。